この問題どう指導しますか?

カテゴリ:国語

H23 筑駒 詩の問題の解き方、小学生にどのように指導しますか

「 虻 」 嶋岡 晨

落石におびえつつハーケンを打ち
雷鳴におののく手でザイルをたぐり
あせにまみれてよじ登った


いつもはおとなしいが
暴れだしたら手のつけられない
大きな牛

ぼくらはその肩にとまった虻みたいなものだ

けれど今ぼくらの中を
まじりっけなしの風がふきぬけ
このよろこびのひととき
虻のこころは山よりも大きくなる

岩燕の歌
わかさのこだま
   いかにも地球にこしかけて
   いっぷくしているぼくらのいのちだ。


問 最後の連には、どのような気持ちが示されていますか。
( 平成23年筑波大附属駒場中学校 出題 )
回答者
国立中学の国語問題研究家

解答日時:2018/12/29 21:09:29

まず、詩を頭から見ていきましょう。

ハーケンとは登山道具の一つで、岩の割れ目に指す釘のようなもので、ザイルとは登山用のロープです。わからない単語があっても登山のための道具だと予想しましょう。「落石」や「雷鳴」という自然の脅威におびえながら登山している作者の様子がわかります。

山と同様に「牛」という自然にもおびえてどうしようもない、支配できないことがわかります。人間は「虻」のように、大きな自然に対してちっぽけな存在であり、自然の脅威をどうすることもできないという気持ちが伝わってきます。牛があばれださないように、落石や落雷にあわないように、恐る恐る立ち向かいます。

しかし、「けれど」から詩は一変します。精一杯立ち向かってするとき、たとえ自然に太刀打ちできないちっぽけな存在であったとしても、人間はそれに対等に立ち向かって挑戦すると、自分の存在は大きくなったように感じることができます。


「このよろこびのひととき、虻のこころは山よりも大きくなる」

は困難を達成したとき、その喜びの大きさは自然の大きさには負けないということを表しています。

虻のような私たち一人ひとりは、ただ自然のような大きな存在に支配されてどうしようもないのではなく、困難に挑戦し歓喜の声をあげることができます。存在は小さくても、こころは地球を股にかける大きな存在になることができる、というすがすがしい気持ちやこれからも挑戦していこうとする意気込みが示されています。

解答日時:2019/01/04 17:21:12

方針はまずは詩の中の対比を捉える。

★方針
まずは詩の中の対比を捉える。大きい牛と小さい虻の対比を捉え、それらが何を表しているかを考える。


★解説
第三連に「ぼくらはその(牛の)肩に乗った虻みたいなものだ」とあるので、ぼくら、即ち人間が虻だとわかる。その場合、大きな牛にあたるものはなんであろうか。大きな牛の特徴としては、いつもはおとなしいということと暴れだしたら止まらないということが挙げられる。これを踏まえて第一連を見ると落石や落雷のある山が描写されている。

ここで大きな牛=山と考えると、小さな人間と、小さな人間ではどうすることもできない雄大な自然という対比が成り立ち、辻褄が合う。山は日頃は雄大な自然であるが時によって落石や落雷など危険を伴い、暴れだしたら止まらないという描写にも適合する。よって大きな牛を山、小さな虻を人間・作者と考えることができる。

今、小さな虻である作者は危険な表情をみせる山を「あせにまみれてよじ登った」のである。その時の感情は「よろこびのひととき」として表現され、達成感や満足感などが表されている。最後の連では「地球にこしかける」や「いっぷくしているぼくらのいのちだ」などそれまでの連に描写された大きな自然と小さな人間を改めて対比することで、作者の喜びを強調している。

また、辞書によると岩燕というのは山地などの断崖に巣をつくる鳥の一種であるらしい。ここでは作者が苦労の末に山を登りきった事実を、岩燕が断崖に巣を作ったことと重ね合わせているのだと考えられる。


★解答案
雄大な自然に比べれば非力な存在である作者が、幾多の苦労の末に山を登りきったため達成感や満足感を感じる気持ち。


★まとめ
この詩の問題では、全体としての対比を捉えた上で具体的な意味を考えていった。大きな存在である自然と小さな存在である人間という対比軸に気がつけばスムーズに考えられるであろう。